ドメーヌ・ド・ロマネ・コンティ(DRC)
世界で最も高価なワインとして知られるロマネコンティ。
フランス、ブルゴーニュ地方、ヴォーヌ・ロマネ村にあるこの約1.8ヘクタールの特級畑を所有し、そこから生産されるピノ・ノワール種の葡萄を使ってワインを生産しているのがDRC (ドメーヌ・ド・ロマネ・コンティDomaine de la Romanee-Conti) というワインの製造会社です。
DRCではロマネコンティの他、同じヴォーヌ・ロマネ村で造られるワインを中心としていくつかのワインを生産していますが、そのうち ロマネ・コンティ と ラ・ターシュ の2つは モノポール(Monopole)と言い、その畑すべてをDRCが独占所有していて、その為他の生産者が生産することはなく、この二つのワイン、ロマネコンティ そして ラ・ターシュ といえば、DRCのワインとなります。
ロマネ・コンティは畑、ワイン、そして会社の名前
フランスでは法律によってワイン関する決まり事が細かく定められていますが、ロマネ・コンティが生産されるブルゴーニュ地方のルールでは国が認めて格付けされたその畑から収穫された葡萄のみを使用して造られたワインはその畑の名前を名乗ることが許されています。
ロマネ・コンティの畑は最上級の特級(グラン・クリュGrand Cru)に格付けされており、よってそのワインも畑名(ロマネ・コンティ)を名乗っているのです。
ブルゴーニュ地方で格付けされている畑は全体の約10%、その中ででも特級に格付けされているのは約1.5%とほんの僅かです。
ロマネ・コンティでは葡萄畑、そしてそこから生産されるワイン、またその畑を独占所有(モノポール)してワインを生産している会社、これら3者が全て「ロマネ・コンティ」を名乗っているのです。
ロマネコンティは何故高いの?
ロマネコンティといえば世界中に数あるワインの中で最も高価、高額なワインとして知られていますが、その価格は過去20年で鰻登りに上昇しています。
弊社がサービスを開始した2000年頃にはその価格は100万円前後でしたが、その後150万、200万円とグングンと上がって行き、今では(2023年現在)リリースされるワインは皆400万円を超えるものばかりで、グレートヴィンテージと呼ばれる天候に恵まれ出来が良かった年のものなどは更に高値で取引されています。
値段が上がっている最大の理由はその「人々を魅了する味わい、そして何よりも知名度と少ない生産量」でしょう。 たった1.8ヘクタールの土地(距離にして130メートル四方)から生産されるワインは年間4〜7千本程度。 ボルドーの五大シャトーなどの生産量が毎年2〜30万本以上という事を考えるといかにその生産量が少なく希少かという事がお分かりになるかと思います。
「世界一のワイン!と称されるワインが毎年たったの6000本程度しか造られていない」 となればその価格がうなぎ昇りに上がっていっても不思議ではないかもしれません 少ない年間生産量、そのつづき>>
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750ml |
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商品コード: 7900204 |
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商品コード: 7900205 |
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商品コード: 6990428 |
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商品コード: 6991240 |
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商品コード: 6991212 |
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商品コード: 6991256 |
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商品コード: 6991257 |
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商品コード: 6991258 |
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商品コード: 6991259 |
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少ない生産量
ロマネコンティの葡萄が造られる畑はブルゴーニュ地方ヴォーヌロマネ村にあるたった1.8haの畑で、そこで栽培される葡萄以外はロマネコンティになる事は絶対にありません。
農作物なので、葡萄は豊作の年もあれば不作の年もある為生産量は一定ではありませんが、作られる本数はおおよそ毎年6000本前後と言われ、ラベルにはナンバリングもされています。
一方、シャトー・マルゴー、ラトゥールなどで有名なボルドーの1級シャトー(5大シャトー)などは何処も80ha前後の畑を所有し、生産本数も毎年数十万本になります。
まさにロマネコンティは一般的に有名な他のワインと比べると生産量が桁違いに少ないのです。
高いのか? 安いのか?
「葡萄から作ったお酒が1本300万円だなんてありえない、クレイジーだ」と考えるのは一般的で常識的かもしれません。
しかし、世の中にはワインを飲むためのものだけではなく「投資」と考える人も少なくありません。
ワインの流通は複雑で、ロマネコンティなどの有名ワインは毎年決められた割り当てが昔から決まった仲買業者などを介して世界中に販売されていくシステムなので買い占める事は事実上不可能ですが、もし仮にロマネコンティを買い占める事が出来たら、例え1本300万円の価格だったとしても、その総額は180億円。 200億円以下でその年のロマネコンティを全て買い占める事ができるという事になります。
世界中にお金が溢れ、数十、数百兆円という資金がファンドなど様々な形で世界中で投資運用されている事を考えれば、絶対にその数が増えることなく知名度もナンバーワンであるこのワインを「決して高くない」と思う人がたくさんいても不思議ではありません。
一度生産されたワインは飲まれて減る事はあっても、もう増えることは無く、世の中からは減っていく一方です。
新興国の発展により富裕層も増え、世界的にワイン人気も高まって行く中、「ワインの王様ロマネ・コンティ」はこれからもますます価格が上昇し続けていく事が予想されています。
かつてフランスの王族、貴族がロマネコンティの畑の所有権を争い、争奪戦を繰り広げた逸話は有名ですが、そこまで人々を魅了するこのワイン、「一度飲んだら忘れられない」その優美な味わいと香りだけでなく、その他様々な理由によてその価値が上がり続けているのです。
ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティが生産するワインと弊社の在庫リスト
有名な十字架とロマネコンティの畑(ヴォーヌ・ロマネ村)
国王のルイ15世の寵妃とコンティ公爵による畑の争奪戦
現在DRC(ドメーヌ・ド・ロマネ・コンティ)社が所有するロマネコンティの畑、その起源はとても古く、古代ローマ時代からワインが生産されており、16世紀ごろに畑の境界線による区画が分けられ、17世紀中頃に非常に良いワインが出来るとが知られるようになりました。
そして、有名な話で「ロマネコンティ」の名前の由来ともなった、 ルイ15世の寵妃で当時権勢を欲しいままにしていたポンパドール夫人とルイ15世のいとこであるコンティ公爵(ルイ・フランソワ1世)の二人が畑の所有権を争いを演じ、莫大な金額を提示したコンティ公が1760年に争奪戦に勝利し、この畑の名前を「ロマネ・コンティ」としました。
その後長い期間、この畑から造られるワインはコンティ王子とその宴に招待された客にしか味わうことが出来ない特別なワインとなりましたが、つまり当時このワインはいくらお金を積んでも買うことが出来きない、まさに特別なワインだったという事になります。
DRCドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社の歴史
現在ロマネ・コンティの畑を所有するのはドメーヌ・ド・ラ・ロマネ=コンティ(DRC)社ですが、その会社を所有するのは、ド・ヴィレーヌ家とルロワ家。
オベール・ド・ヴィレーヌとアンリ・フレデリック・ロック(ラルー・ビーズ・ルロワの甥)の二人がドメーヌを共同経営しています。
そのドメーヌ・ド・ラ・ロマネ=コンティ社の発祥は1867年、ロマネ・コンティの畑が、サントネのネゴシアンJ・M・デュヴォ・ブロシェに売られた時にさかのぼります。
現在の当主ヴィレーヌ家はこの一族の子孫に当たりますが、1942年、デュヴォ・ブロシェの子孫にあたるオベール・ド・ヴィレーヌの父は、ドメーヌの半分をオークセイ・デュレスのネゴシアンであったアンリ・ルロワに売却しました。
そして1979年アンリ・ルロワの死後二人の娘であるラルー・ビーズ・ルロワと姉のポリーヌがドメーヌの四分の一ずつを受け継ぐことになります。
その後1992年にラルー・ビーズ・ルロワは共同経営者を退き、ポリーヌの次男(ラルー・ビーズ・ルロワの甥)である、アンリ・フレデリック・ロックが共同経営者となり、現在にいたります。
彼は1988年に自らのドメーヌ、プリューレ・ロックを立ち上げ、自然派ワインの先駆者の1人として成功を収めている人物でもあります。
現在でも畑はとても小さく、生産本数が限られているため、価格は非常に高額で今尚、ロマネ・コンティは限られた人にしか飲むことが出来ない貴重で希少なお酒となっています。
石垣に刻み込まれた「ROMANEE CONTI」の文字が唯一ここがその畑であることを示す
究極のバランスを誇るヴォーヌ・ロマネのワイン
ボルドーと並びフランスを代表する銘醸ワインの産地「ブルゴーニュ地方」の「コート・ド・ニュイ地区」のちょうど中央に位置する「ヴォーヌ・ロマネ村」に、DRCはドメーヌを構えています。
縦に長いブルゴーニュ地方の中でも特に優れたワインが生み出される地域として人気の高い「ヴォーヌ・ロマネ村」。全体が南東をむいた斜面に位置するこの村からは素晴らしいワインの数々が生み出されています。
果実味の強さ、香りの豊かさ、力強さなどそれぞれの個性で際立つ産地は他にもありますが、ヴォーヌ・ロマネの素晴らしさは、なんといってもそのバランス。全てを兼ね備え、全てが際立ち、そして大きな花のように咲き誇る。複雑さをもちながらエレガントさが際立ち、果実味が際立ちながらも単純なだけでは終わらない。この総合点の高さに、世界中の熱い視線が注がれているのです。
DRCの葡萄は直系の子孫のみ
フランスのワイン用葡萄は害虫フィロキセラによって壊滅的被害を受けた時期があり、その際、多くの葡萄は畑から引き抜かれ、アメリカから取り寄せた台樹に接木をすることで害虫被害をさけてきました。
しかし、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティでは1945年まで葡萄をそのままに栽培し続け、1760年にこの畑を所有し素晴らしいワインを造り上げたコンティ伯爵時代の葡萄を守る努力を重ねてきました。とうとうロマネ・コンティの畑の葡萄を抜かなくてはならなくなった際にも、ラ・ターシュの畑に植わる葡萄に、ロマネ・コンティの葡萄からとった枝を接ぎ、その枝を再度ロマネ・コンティの畑に植える当為方法で大切な葡萄を守ってきました。
現在、ロマネ・コンティの畑に植わる葡萄もコンティ伯爵時代の直系の子孫のみが植えられているのです。
DRCの栽培
DRCの畑ではビオディナミ農法が採用され、大切に受け疲れた唯一無二の畑と葡萄の特徴を最大限に引き出す努力がなされています。また、一部の畑では馬による耕作を行っています。馬による耕作は見た目にも目をひく光景ですが、実際にトラクターを使用するのにくらべ、土が踏み固められることがないため、表土に存在する有機物の構成が整い、その結果、根っこがミネラルを吸収するのに必要なバクテリアが成長するとともに、葡萄の根そのものが深く大地に根を張ることを促すなど、具体的なメリットがあるのです。
また、徹底した収量制限をしていることでも有名です。天候に恵まれた優良年でも30hl、そして天候に恵まれたなかった年には10hlまで落とすこともあります。
DRCの醸造
収穫された葡萄は破砕、除梗はせずにそのまま醗酵槽に入れ醗酵させます。醗酵温度は32-33度を保ち、醗酵および醸しはできるだけ緩やかに長めに行います。
トロンセ産の新樽を100%使用して熟成を行います。
グラン・クリュの特徴
ロマネ・コンティは、ヴォーヌ・ロマネ村の中心に位置する1.8haの特級畑で生み出されるワイン。
1年で生産される本数は平均で6000本程度と極めて少ないにもかかわらず、世界中からひくてあまたの人気を誇るワインであるため、最も高額で取引されるワインとしても有名です。
ドメーヌの名称ともなっていることからも推察できるとおり、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ(DRC)を代表する畑です。
1947年から1951年までの5年間はロマネ・コンティが造られなかった
ロマネ・コンティが造られなかった年があることご存知でしょうか?
1947年から1951年までの5年間、ロマネ・コンティは造られていません。
それは、戦時中に葡萄樹の天敵であるフィロキセラ(ブドウネアブラムシ)が蔓延したのですが、農薬の入手が困難な時代だったためロマネ・コンティの畑もこの害虫の犠牲となりました。 そして、1945年のヴィンテージを最後に、アンリ・ルロワはすべての葡萄樹を伐採する決断をしました。
そのため、葡萄の樹が成熟するまでの5年間、この畑からワインを造ることが不可能となったのです。
なお、通常フィロキセラの被害にあった畑では、アメリカなどから取り寄せた台樹を使用して接ぎ木をしていますが、DRCではロマネ・コンティの畑についてはラ・ターシュの畑に植わっていたピノ・ノワールを台樹としており、あくまでもDRCが維持してきた純血の畑と葡萄樹へのこだわりを通しています。
史上最高値で落札されたロマネ・コンティ
ロマネ・コンティは最も高額なワインとしても有名ですが、2018年に行われたサザビーズのオークションで 1945年ヴィンテージが 55万8000ドルで落札されました。 もちろん、この落札価格はオークションで取引されたワインとしては過去最高値です。
このワインをオークションに出したのは、メゾン・ジョセフ・ドルーアンの当主 ロベール・ドルーアン氏。
600本しか造られていない 1945年のロマネ・コンティですが、所蔵者が名門ドルーアン一族であることからもその真偽に疑いの余地はなくこの高値での取引となりました。
1945年のロマネ・コンティは何故高いのか?
1945年は第二次世界大戦が終結した年であるため、戦禍を逃れ造られたワインということにまず希少性があります。
さらに、ロマネ・コンティでは戦時中に蔓延したフィロキセラにより、対策をうつこともままならないまま多くの葡萄樹が被害に合い、よく1946年にはすべての葡萄樹がひきぬかれることとなりました。
そのため、自家根の葡萄樹で実った葡萄で造られた最後のロマネ・コンティということで、1945年に造られた600本は別格の扱い、取引対象となっています。
その歴史をローマ時代にまで遡ることが出来る偉大な畑
ロマネ・コンティの畑名にある「ロマネ」の名は、ローマ時代にこの地を統治し葡萄栽培を行っていたローマ人が、この豊かな土地への感謝の気持ちをこめて命名したのが始まりです。
10世紀初頭からこの地を所有したのは、サン・ヴィヴァン修道院で、ルイ14世の時代には彼の持病の治療薬として、この畑で造られたワインをスプーンに数杯づつ飲んでいたという言い伝えも残っています。
1760年には、売りに出されたこの畑をポンパドール夫人に競り勝ったコンティ公爵が手に入れました。
そして、現在の畑名「ロマネ・コンティ」となり、フランス革命で没収された後も現在に至るまでこの名が使われています。
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